躁鬱の完治は諦めてます。

躁鬱歴15年&HSP。幸せを感じるのって難しい。

破壊願望

 

 

今までの人生でしたことはなかったが、イライラするとたまに物を投げて壊すようになった。

 

医師に勧められたこともあって、たまに実家に帰っていた。実家には両親を弟が住んでいる。

 

ある日実家に帰った時のこと。

 

私が飼っている犬の世話をしていて、そのフンをトイレの便器に入れたまま流していなかった。

 

弟「ねーちゃん、フンちゃんと流しておいて!」

 

弟に注意された。彼の声はすごく怒っているわけでもないし、怒鳴ってもいないけれど、少し不機嫌な様子がうかがえる。

 

たったそれだけでダメだった。何も言い返すことができない。「わかったよ。」の一言で済むのに。

 

不動産屋のこともそうだが、人の不機嫌な気持ちを大げさに捉えた。

 

 

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人が怒っているのを見る→自分が悪いことをした→自分は人を不機嫌にさせるダメな人間だ→人が怖い

 

悲しくなってきてがでてくる。どうしていいかわからなくなる。

 

弟が幼い頃好きだったアニメのポスターがまだ部屋にたくさん貼られたままだった。それを泣きながら片っ端から引きちぎって破りだす。ポスターの切れ端が散乱する。

 

同時に罪悪感も感じる。本当は物を壊したくはない。

 

その日もしばらく泣き止むことはなかった。

 

今考えれば『そんな小さな事』なのだが、当時は苦しい状況なのに更に自分を否定されるように感じていた。

 

そして言葉で反論できない代わりに泣き続ける。

 

医師曰く、鬱の人は破壊願望があるようだ。物を壊したり、人間関係までも壊してしまったり。

 

私には3年間付き合った彼がいたが、病気になって数ヶ月して別れてしまった。もしかしてそれは破壊願望の一種だったのかもしれない。

 

間違ったストレス発散方法

  

 

調子の悪い時は、自分でこの気分をどう発散していいかわからない

 

今であれば、カラオケに行って大声で歌うとか、自然の中を散歩するとか、ひたすら寝るとか自分に合ったストレス解消方法がわかってきたのだが、病気になった最初の頃は本当にどうしていいかわかず悩んだ。

 

【当時の私のストレス解消方法】

 

  1. 過食
  2. 買物
  3. 恋愛
  4. 睡眠
  5. 物を投げる

 

寝る事以外は良くなかった

 

たくさん食べている時は幸せだが、あとから罪悪感が襲ってくる。

 

必要のないものまで購入して、部屋が物で溢れ、かなり無駄遣いをした。

 

恋愛することは楽しくて幸せだが、失恋した時の喪失感と、考えなくてもいいことまで考えて嫉妬し、気持ちのアップダウンが激しい。

 

物に当たるが、本当は物を大事にしたい気持ちがあるので後で後悔する。一度携帯を壁に投げたが、私にとって高価なものだし、壊れはしなかったが更に気分が悪くなった。

 

この病気と10年以上付き合ってきてやっと調子の悪い時の対処法がわかってきたが、自分を知り、自分に合うものを見つけるのはとても時間がかかることだと知った。

 

障がい者の就職を支援する就労移行支援事業所 Cocorport(旧社名:Melk)

 

 

 

高圧的な不動産スタッフ

 

休学している時、引越しを考えていた。どれくらい休学するかもわからないし、もう少し安い部屋に住みたかった。

 

そして一階に住んでいた私は、ビルの管理人がよくベランダをウロウロするのが気に障って仕方がなかった。もちろん庭の整備のためだが、なんだか嫌で常にカーテンを閉めていた。

 

医者には日光に当たるのは鬱にいいことだと言われたし、自分的にも日光は気分をよくしてくれる気がした

 

ということで、家賃が安くて、2階以上の日の当たる部屋を探すことに。

 

インターネットで物件を探し、全国にチェーン店のある不動産屋に内見を申し込んだ。

 

当日3軒ほど部屋を見せてもらった後、不動産屋の事務所に戻ってきた。

 

部屋を決めるには親と相談しなければいけない。当時学校も行けず、働くこともできなかった私は親に頼るしかなかった。

 

内見した物件資料をもらった後に、

 

私「少し検討させてください。」

 

スタッフ「この物件は人気だから、すぐになくなりますよ。」

 

私「すぐには決めれないので親と相談させてください。」

 

スタッフ「でも仮押さえしておかないと、他のお客さんに取られちゃいますよ。」

 

部屋を仮押さえして、手付金の支払いと用紙の記入をさせようとする。後から知ったのだが、賃貸の場合の仮押さえと=入居申し込みのことで、入居審査の間は物件が仮押さえられるという意味らしい。

 

何度断っても、どうしても契約に結びつけたいがために食い下がるスタッフ。次第にスタッフの表情も曇ってきた。不機嫌そうだ。

 

 

その表情を見て、私はもう耐えられなくなった。客がこんなに断ってるのに一歩も引かない。自分が悪いことをして責められているような気になってきた。

 

が溢れて止まらなくなる。

 

歯を食いしばって我慢していたが、やっとのことで言葉を絞り出す。

 

私「もういいです。」

 

それだけ言って店を出た。高圧的で客の話を聞かないスタッフに「こんなセールスはやめてください。」「何度も言ってるように今は決められません。」など反論ができる余裕はなかった。ただこの場から離れたい

 

不動産屋には自転車で来ていた。悲しみと怒りをどうしていいかわからず、停めてあった自分の自転車を突き飛ばす。同時に物を傷つけたという罪悪感も感じる。何をしてもいい気分にはならない。

 

その日はなかなか泣き止むことはできなかった。

 

この頃から、自分は人の感情を異常なくらい受け取ってしまうようになる。

 

自分は全く関係ないのに、怒ってる人や不機嫌な人を見ると、自分が怒られているように感じてしまう。

 

本当に鬱病?!

 

単位は取れないし、後期はこれ以上学校に行く意味もないので、割り切って学校に行く事を辞めた。休学するにはもっと早く手続きをしなければいけなかったので、今回は授業料は戻ってくることはない。

 

やる気が出ず、ダラダラ毎日の連続。でも本当にたまに元気のある日があった。鬱の波にもよるが、月に2〜3日ほど普通に外出して、遊んで、買い物する日があった。

 

  • 朝は起き上がれない事が多いので、基本的には夕方から外出。
  • 異文化交流会や合コンでたくさんの人に会って積極的に友達作り。
  • 飲み会でたくさんお酒を飲む。
  • オールナイトで遊び、朝帰り。

 

一見すると、普通に元気な社交的な女子大生。鬱で体調悪くして休学してるということをたまに人に話すと、とても驚かれた。

 

「うそー!全然元気じゃん!」

 

「遊びすぎて休学してるんじゃないの?!」

 

「大丈夫、大丈夫、そんなのすぐに良くなるよ!」

 

みんな信じてくれないし、適当なことを言う。

 

日頃ストレスを抱えて引きこもっていた分、元気のある日は自分を制御できていなかった。

 

お酒を飲みすぎたり、朝帰りで体力を使い果たして昼間は1日中寝ている・・・

 

そして買い物をしすぎて、いくら使っているのか計算できない、浪費について考えられなくなった。幸い借金をすることはなかったが、今考えるとかなり無駄な買い物をしていたと思う。

 

鬱の日と元気のある日のエネルギーのバランスが悪かった

 

 

 

本格的不登校開始

 

 

最後の文化祭で燃え尽き、教授からも拒否され、何を目的にして生きていけばいいかわからなくなった。

 

辛うじて週に数日通っていた授業も通えなくなり、ついに完全不登校になった。

 

<当時の私の1日のルーティーン>

 

  • 7am       目が覚める。でも起きる気がしない。二度寝する。
  • 8am       眠気はないが、ベッドから動けない。
  • 9am       ベッドから動けないのでテレビをつけてダラダラ見る
  • 12pm   お腹は減るのでお昼ご飯を食べる。
  • 13pm   座ってるのが疲れるので、ベッドに横になる。
  • 14pm   授業にでたいとずっと考えながらも、やっぱり動けない。
  • 17pm   日も暮れ出し、今日も1日何もできなかった自分に悲しくなる。
  • 19pm   夕飯を食べる。
  • 20pm   ベッドに入って、携帯をいじる。
  • 22pm   就寝。

 

基本的にずっとテレビはつけっぱなしで、なんとなくダラダラ見る。外に出るのがおっくうで、買い物も最小限。平日の昼間は授業に参加できない自分を責める。

 

 この時大学3年生の冬。みんなが就職活動をしだす時だった。SNSから友人の就活状況がわかる。その情報が私を追い詰める。

 

『開き直って、1年休学して好きなことして、気持ちがスッキリしたらまた復学しよう。』

 

なんて割り切れない。毎日モヤモヤダラダラして過ごす。

 

起きて、ご飯食べて、寝る。これが唯一、今の私にできること。普通の人からしたら『ただの怠け者』と思われるだろうが、それで精一杯。生きているだけで精一杯

 

 

 

 

白紙の人生

 

 

 なんで私は人の言葉を素直に受け取りすぎるのだろう??

 

現在もそうだ。それによって、自分を苦しめることが多々ある

 

教授から遠回しに、デザインの才能がないから研究室には来ないでと言われた時、なぜめげずに食い下がらなかったんだろう。

 

その時の私は、その一撃をかわす方法も、受けた傷を癒す方法もわからなかった。

 

ただ落ち込むのみ。

 

ずっと中学・高校生の頃からデザイナーになる夢を持って、その勉強ができるカリキュラムのある大学を選び、授業を休むことなく成績上位を保ち、課題の提出も遅れることなくこなし、他の生徒に負けたくないと熱心に勉強してきたことが無駄だったのか。

 

自分がしてきたこと全てを否定されたように感じた。

 

私のしてきたことは何だったんだろうか。

 

自分の人生が白紙になったようだった

 

 

 

 

 

教授からの拒否

 

 

そろそろ卒業論文・卒業製作に取り掛からないといけない時期になってきていた。

 

私には尊敬していた教授がいた。年齢は50代頃、元ファッションデザイナーという肩書きの男性教授だ。細身のデニムに白いシャツ、中折れの帽子が彼の定番ファッションであった。一つ一つのアイテムもこだわりがあり、いつもおしゃれである。そこらへんの中年のおじさんとは全然違うオーラを出していた。彼についていけば、目標であるデザイナーになれると信じていた。

 

教授の授業は勉強になったが厳しかった。毎回テーマを出され、それに沿ったデザイン画を描く課題があった。授業の初めな必ず全員のデザイン画を黒板に張り出し、毒舌品評会をする。教授は物事をはっきりという人であった。いいものはいい、悪いものは悪い。いつもハラハラしながらデザイン画を提出していた。

 

私は絵が上手ではなかったが、憧れの教授に褒めてもらいたい一心で、一生懸命に描いた。この人についていきたいし、認められたいと。私のデザイン画がいいと言われることはなかったが、毎回興味深く、為になる講義をしてくれた。

 

3年生の生徒は必ずどこかの研究室に所属しなければいけない。西洋服飾史の研究、洗濯洗剤による汚れの除去の研究、ニット製品の製作などの研究室があり、1年を通して教授の元で研究や製作をする。卒業論文または卒業制作を仕上げないと、大学卒業はできない。

 

私はもちろん尊敬するあの教授の研究室に入り、卒業制作としてアパレルのデザインをし、ブランドの提案をしたかった。それ以外の研究室に入ることなど全く考えていなかった。そうでないと、この大学を選んだ意味がなくなる。

 

研究室に入りたい旨を、そろそろ教授に伝えようと思っていたある日、校内のエレベーターの中でばったりその教授に出くわした。

 

私『あっ、〇〇先生!先生の研究室に入って、卒業製作がしたいです!』

 

二つ返事で「ああ、いいよ。」と教授が言ってくれると思っていた。なぜなら、その教授の指導は厳しく、ほとんどの生徒はその研究室を希望しないと聞いていたからだ。定員オーバーになることはほぼないと踏んでいた。

 

だが私の検討は外れた。

 

教授『僕の研究室には来ない方がいいよ。デザイン画をたくさん描かないといけない。君は真面目だから、家庭科の先生になったほうがいいんじゃない?』

 

そう言ってエレベーターを降りていった。

 

思いがけない返事に私は何も言い返せなかった。

 

研究室に来ない方が良い=私にはデザインの才能なし

 

デザイン画をたくさん描かないといけない=デザイン画を描く技術がないからやめたほうがいい

 

家庭科の先生になった方がいい=ファッション業界で働けるような非凡な才能はないので、学校で基本的なことを教える先生になった方がいい

 

私の頭の中でこのように変換された。

 

教授に研究室の拒否をされただけでなく、今まで私は学校の先生にはなりたくないと思っていたのに、皮肉にもそれを尊敬する教授から勧められてしまった。

 

私はとても素直であった。

 

まっすぐそれを受け止めた

 

私の夢がナイフで切り裂かれたようだった。

 

そこから私の人生は白紙になった。

 

 

障がいのある方への就労移行支援【パーソルチャレンジ・ミラトレ】

 

 

抜け殻状態

 

 

文化祭が終わった。そして私のやる気や体力も燃え尽きた

 

無事に文化祭が終わり、安心してしまったせいか動けなくなってしまった。

 

「やっぱり毎日踊っていたから疲れるよね。しばらくのんびりしよう。」

 

ダンスはしばらく休んで、これからまた授業や英語学習、そして卒業研究に向けて頑張ろうと思っていた。

 

だが、しばらく休んでも体力が回復する気配はない。

 

また授業を休むことが増えてきた。

 

特に朝が弱くなっていた。

 

朝に目は覚めるのだが、ベッドから起き上がれない。

 

「あと1時間だけ寝よう。」

 

1時間後、まだ起き上がれない。

 

「じゃあもう1時間ゆっくりしよう。」

 

この繰り返しで、起き上がって行動できるようになる頃には日が傾いていた

 

最終授業は午後4時半にスタートする。今から準備して学校に向かったとしても、到着する頃には授業はほとんど終わっている。そんなのでは教授は出席扱いにはしてくれない。

 

「明日こそ学校へ行こう。」

 

でもなかなか行けない。なぜだかわからないが、どうしてもできない。

 

学校へ行くことが、私にとってハードルの高いことになってきていた。

 

燃え尽き症候群

  

 

大学の後期の授業が始まった。10月に行われる文化祭の準備もどんどん進んできた。この時私は3年生。これが最後の文化祭参加となる。

 

夏休み以前の授業・課題制作・サークル・アルバイトのルーティーンは継続しつつ、その隙間時間にダンスサークルの追加の練習予定がさらに加えられて行った。忙しさに加えて、体力的にも限界が近かった。

 

私の通う大学の文化祭は2日間あり、各1回公演。他大学のダンスサークルの文化祭には参加しなかったが、練習のために週一回は他大学に通っていた。

 

私の通う大学のダンスサークルは部員は30人ほどで、顧問やリードしてくれる先輩はもうおらず、私を含め、3年生が主体となって進めていかなければいけない。

 

メンバー選び、選曲、曲編集、振り付け、衣装選び、全体の構成、みんなの意見を踏まえて決めていかなければいけない。

 

ほとんどの生徒がアルバイトをしてるため、みんなが揃う時間はほとんどないので、放課後に集まった生徒で話し合って練習する。

 

凝り性で完璧主義者の私は、毎日振り付けや構成を考えていた。

 

いい案が浮かんだと思えば、やっぱり違うと思い、振り出しに戻る。延々に考えるが、100%自信を持てるものは作れない。授業も上の空で、頭の中で使用する音楽が延々とリピートされ、それにあった振り付けをイメージする。

 

それでも全てのダンスの振り付けと構成が完成し、全員で何度も予行練習をした。

 

そしてなんとか文化祭当日を迎えることができ、無事に二日間の公演を終えることができた。

 

サークルを3年間続け、気の合う仲間と出会い、思い出に残る最後の文化祭になった。

 

小さなバーを貸し切って打ち上げもして、サークル仲間と食べて飲んで写真もたくさん撮って、楽しい夜を過ごした。

 

・・・

 

その後、私は原動力を失ったように、何もできなくなってしまうのだった

 

 

帰国

  

 

腹立たしいあの生徒ともあれからほとんど会うこともトラブルもなく、私は無事に短期のプログラムを終了し、学校を卒業した。

 

 

多少は不登校になりながらも、新しい事の発見や、刺激のある毎日、そして拙い英語力ながらもいろいろな国の人々とコミュニケーションが取れたことにとても満足のいく短期留学であった。

 

鬱と診断されたことを忘れるくらい、有意義な時間であった。

 

「次回は海外留学を長期でしてみたいな。もっと海外の生活を体験してみたいな。」

 

とも考えた。

 

ダンスをすることや英語を学ぶことは楽しかったが、それはあくまでも趣味の一つ。

 

私の一番の目標は、ファッションの勉強を頑張って、アパレルデザイナーやマーチャンダイザーになること。それが第一優先だ。

 

「大学卒業後は海外の専門学校へ行ってファッションを学んだり、ファッション業界で働く中でツールの一つとして英語が使えるといいな。」

 

と淡い夢を抱いて、8月末に日本へ帰国した。